【 卒後20年〜23年 】


『 日進月歩 』

福島孝徳記念病院を開院した5年後、諸事情により活動地域を東京に移すことを福島孝徳先生が決断されました。森山記念病院(東京都)と新百合ヶ丘総合病院(神奈川県)に機能的移転をすることになり、森山記念病院へ転職しました。地域救急病院である森山記念病院で救急医療とは別に「福島孝徳脳神経センター」を,福島孝徳先生と最も親交が深く、仕事でも長いお付き合いをされていた脳外科医である 森山貴 理事長に設けて頂きました。コツコツと治療に必要な環境整備を頑張って行って、脳腫瘍、脳動脈瘤、三叉神経痛、顔面痙攣、舌咽神経痛等の手術を少しずつ実績をつくりました(福島孝徳記念病院は、塩田記念病院と名称を変え救急病院に変わりました)。

 

東京に移転してから、多忙な福島孝徳先生の不在時の手術を多く任される事になりました。 また、福島孝徳記念病院の頃より手術に来て頂いた東京虎の門病院(間脳下垂体外科)の山田正三副病院長には移転後も、以前と同様にお世話になっています。下垂体腫瘍では継続して国内最多症例をこなしている山田先生の顕微鏡手術から内視鏡手術まで手術をみてきました。とても勉強になります。このような手術経験に富んだ先生方の手術を学べて自分はとても運がいいと思います。20年位前の事ですが、下垂体手術において「触れてはいけない」とされていた下垂体近傍の重要構造物である海綿静脈洞部領域の腫瘍も平気で手術されていた福島先生の手術の凄さを強く感じた事を思い出します。

 

 


【 卒後24年〜27年 】


『  敢為邁往(かんいまいおう) 』

”敢為”は、物事を困難に屈しないでやり通すこと、”邁往”ひたすら進むことという意味で、「目的に向かって困難を物ともせず、自ら思い切ってまっしぐらに進んで行くこと」です。

手術のスペシャリストである上山博康先生や山田正三先生より、脳外科医として専門性を持つ手術を身につける大切な時期に多くを学ばせて頂きました。そして、世界で活躍する福島孝徳先生より直接指導をうけ、とても多くの手術を行ってきました。自分なりに、脳疾患と手術でのリスクや全体的な治療についての考えを張り巡らせる事ができました。自分なりに納得して治療を行えるようになったのだと思います。

 

 思い起こすと、ここ15年位は現場一筋で帰宅後はリビングで撃沈(爆睡)していた医師生活でした。手術の達人と呼ばれる素晴らしい先生方をまねるだけでも大変です。それを自分のスタイルに変えてく事は、本当に大変でした。知的探究心や研究心を持ち日頃から研究や学会といった分野で活動されている諸先輩方を見習って、今後は学会活動もゆっくり行いたいと思います。

 

 福島孝徳先生/ 根本(私) /上山博康先生     根本(私) / 山田正三先生/ 福島孝徳先生


【 卒後27年〜30年 】


『 well-rounded experience  』

脳外科医でもある森山貴理事長からの勧められ、2020年から長年一緒に手術をしてきた福島先生から独立をして、自分の患者さんの治療に専念する事にしました。

 

仕事は、今まで通りに森山脳神経センター病院で外来を行い、手術は森山記念病院で手術を行っています。森山記念病院は江戸川区の救急病院の主幹となっています。私は、救急医療を行なっていないため、堀智勝森山脳神経センター病院長(元 鳥取大学脳外科教授/元 東京女子医大脳外科名誉教授)と一緒にセンター病院 脳神経外科の所属となっています。堀病院長と共に森山記念病院 脳神経外科医と一緒に仕事をしています。森山記念病院 松尾成吾病院長は、脳外科部長も兼任されています。常日頃より手術症例についてご意見やご指導を頂いており、恵まれた環境にいます。また、全員が脳外科医として育った畑(大学病院や研修施設)が違います。優秀な脳外科医の先生達と一緒に仕事をしていますが、多く新しい発見や発想を私に与えてくれる環境でもあり、新鮮な職場であるともいえます。この様な恵まれた環境で、今後も過信する事なく、豊富な経験を活かし自分の医療を実践してきました。

2020年 森山記念病院 カンファレンスルームにて


【 卒後30年〜 】