【 卒後10年 】


『 大学病院における第1例目の執刀;高血流(流量)バイパス術』

頭皮を栄養する細い血管を脳の血管に吻合する通常のバイパス・低血流(低流量)バイパスよりも、多くの血液が必要とされる症例があります(大きな腫瘍や動脈瘤など)。腕や大腿部の太い血管を取り出し、頚の血管から脳の血管へ吻合する高血流(高流量)バイパスを用いる事があります。当時、海綿静脈洞部の大きな動脈瘤に対して、どうしてもこのバイパスが必要な患者さんが来られました。通常のバイパス・低血流(低流量)バイパスは数多く行っていましたが、この高血流バイパス/高流量バイパスは、執刀したことはありませんでした(手順・技術・コツ・注意点が多々あり、この頃は上山先生が全国の大学病院を含む病院に招聘されて、前腕の橈骨動脈を用い、頚部から頭蓋内へ多くの血液を供給する高血流バイパス/高流量バイパス手術を行っていました)。諸事情により、私が執刀するしかない状況にありましたが、教授からは手術の許可を得られませんでした。今後どうするかを患者さんやご家族と相談(転院など)している経過で、患者さんとご家族から教授に宛てた嘆願書によって、教授より承諾を頂き手術を行うことになりました。その嘆願書には、全てを承知した上で私の手術を受けたいとの内容でした。そして、大学病院での初めての高血流流()バイパス手術を執刀し13時間の手術を成功させました。勿論、自信が無ければ行いませんでしたが、現場第一でコツコツと努力し頑張ってきた事が当時難しいと言われた手術を成功に導いたのだと思います。また、普段から見てきてくれた教授や先輩方の御高配があったから今も感謝しています。患者さんが病気を治したいという強い思いに答えるができた事に心底からこみあげる喜びがありました。患者さんが退院する時、医師の役割を果たす事ができて、緩やかに感動が噴き上がったのを思い出します。臨床医として大きなやりがいを実感した時です。血行再建(バイパス術)を行って、私自身の経験数はもう少しで200を超えますが、現在では脳血行再建(バイパス術)は大切な治療方法としてその手技や方法が広くに伝わり、私がこの手術をした10年以上前とは治療方針や内容も大きく変わってきています。また、同時に脳血管内治療も日々発展しており、脳血管疾患に対する治療法や適応もひと昔前とは違います。


【 卒業11年〜12年 】


『 新たな目標 』

少しずつ手術のスキルがあがり更にステップアップを考え、福島孝徳先生をはじめとする有名な先生方の手術を積極的に見学していました。少しずつ難しい場所(頭蓋底部、後頭蓋窩)の手術を見るようになり、その複雑な立体的構造や立体的に重なる正常な構造物の方向による見え方の違い等、手術中の視野(見えるスペース)を自分で的確に想像できない事が、スキルアップのハードルになりました。脳腫瘍は、大学病院などの大きな病院では、執刀させてもらう機会が少なく、特にこの部位の脳腫瘍はさらに少なく、頭蓋底部、後頭蓋窩の立体空間のどの部位をどの方向から見ているのか?、腫瘍に隠れている正常構造物がどのようになっているのかを手術見学していても、きちんと頭の中で十分な予測する事できませんでした。上山博康先生のもこの領域に、高度な技術を用いる高血流バイパス術をおこなっておられたので、この領域については勉強しましたが、残念ながら、教科書・参考書での言葉の表現では情報量が少なく(複雑な解剖全体を実感できない)、やはり専門のトレーニング(人体解剖)が必要でした。この領域の世界的に有名な脳外科医が、福島孝徳先生でした。日本では、まだこの領域の手術に関わる情報や解剖についての教育環境は十分ではなく、海外へ赴きこのトレーニングをうけなないと十分にでききませんでした。人体を使用する倫理上の問題が日本ではありました。福島先生の手術を定期的に見学をしてきましたが、ただ凄いということではなく、学問的興味をもって見学できるようになったのもこの時期でした。

 

その後、動脈瘤だけではなくや部動脈狭窄、もやもや病などの血行再建を中心に治療(手術)を行う日々でした。内科の先生や当時の病院長からの協力もあり、上山博康先生に大学病院に来て頂き講演や手術の指導をして頂けるようになりました。また、地域で研究会を立ち上げてるまでの協力を得るなど、コツコツと活動をしていました。


【 卒後12年 】


『 ターニングポイント』

ある学会の発表後に福島孝徳先生に話しかけられ、その後の懇談会で「よくやってる、頑張りなさい」と声をかけられました。雲の上の先生だったので、強い衝撃と感動をうけました。学会帰りの飛行機も一緒になり。臨床ばかりで病院に引きこもり的でしたが、この事がきっかけで、海外の福島孝徳先生の解剖トレーニングに参加、そのレベルの高さと効率のよい内容に驚きました。ある日、いつものように福島先生の手術を見学していた時に、福島孝徳先生より声をかけられ、福島先生のスタッフとして勧誘を受けました(福島孝徳記念病院の構想があったそうです)。福島孝徳先生のお膝元(アメリカ)で勉強させてくれるという話があったので、喜んで大学病院を退職してアメリカに行くことにしました。


【 卒後13年〜14年 】


『 夢の世界 』

福島孝徳先生のDUKE大学内にある頭蓋底センターには、脳外科医療機器(脳外科手術用顕微鏡、脳外科用手術器機、頭蓋底手術用器機等)環境が充実していました。さすが、福島先生の研究室と思われる最高の設備でした。

 

医学発展のため、また、力量の高い医師を社会へ送り出すために、死後に自分の肉体(遺体)を解剖を学ぶための教材となる事を約し、遺族が個人の意思に沿って医学部の解剖学教室へ提供する「献体」といいます。日本では、「献体」を用いての解剖を学ぶ機会は少なく、さらに頭部だけその複雑な解剖を知り手術法を学ぶ機会はほとんどありませんでした。何度も解剖と実践を繰り返さないと自分のものにはならない脳外科の中での難しい領域が頭蓋底手術でした。献体先進国である米国で福島先生の研究室で、好きな時に好きな時間・時間帯に解剖を自分の頭に刻み込むことができました。朝から深夜まで解剖を行い解剖の知識を頭の中に焼き付けていきました。さらに解剖知識を実施臨床(実際の手術)にマッチさせるため、福島先生が実践がされている手術を見せて頂いた後に研究室で再現をして勉強していきました。このセンターには、日本の大学より解剖の研究を目的に留学されていた先生方が過去何人もいらっしゃって、多くの論文を出されています。私は、福島孝徳記念病院で福島先生と手術を行うという(実践する)大きなプレッシャーから、メスを持って解剖を毎日深夜まで行う日々でした。日本では考えられないこの環境は、自分にとってはまさに「夢の世界」でした。海外生活だけではなく、旅行や文化を楽しむ事もできました。福島孝徳記念病院が、予定よりも早く完成することになり帰国することになりますが、その間に世界的に有名な先生とのお話をする機会や海外での手術や技術情報、医療事情を聞く事ができました。通常ではほとんどないような経験や体験する事ができました。

 


【 卒後15年〜19年 】


『 現実の世界 』

福島孝徳記念病院が開院すると、全国から多くの患者さんが来院。福島先生の来日の回数も増え、手術が多く行われるようになりました。福島先生のおっしゃっていた「実践の仕事」がはじまりました。アメリカでは笑顔の多い福島先生も日本での手術室ではとても厳しく、手を抜かない完全主義ですから「今まで何をやっていたんだ」と怒鳴られる日々でした。厳しい日々でしたが、学んだことを実践する、そして世界的な名医である福島先生からの直接の指導という脳外科医としてはとても贅沢な環境でした。この厳しい新たな世界で、1年間で約180日位は病院に泊まっていました(あまり家に,帰れませんでした)。脳腫瘍(特に、髄膜腫、聴神経腫瘍、下垂体腫瘍など)の手術症例数は、大学病院を含む全国の施設でトップレベルでした。また、脳腫瘍だけではなく、三叉神経痛や顔面痙攣、舌咽神経痛、脳動脈瘤も多く行っていました。福島先生に手術を許された限られた医師で各々のスキルに応じた手術を行っていましたので、手術の施設症例数だけではなく、個人の手術経験数もかなり多くなりました。この病院での仕事は、脳外科医の人生も最も重要であり大切な期間でした。世界トップの福島先生が目指す最高の医療や環境を維持するための仕事をこなしていく事はとても大変でした。開院4年後では、開院時から働いた医師は私だけとなっていました。しかし、新たに福島先生の元で勉強や仕事を希望し次々に入職してくるスタッフと一緒に頑張っていました。

 

福島先生のもとに留学して解剖を自由に勉強させて頂き、その後に長年にわたり直接指導をうけながら手術(実践)してきたのは、福島先生のもとで学んだ脳外科医の中でが私が初めてだと思います(この夢が、かなうまでに関わった方々に感謝しています)。


→ 【 卒後20年〜23年 】

『 日進月歩 』