アメリア合衆国に在住し、世界各国で治療困難な手術のために招聘され手術を行なっている日本人の脳神経外科医です。アメリカのDUKE大学を拠点としてウエストバージニア大学、カロリンスカ研究所(スゥエーデン)、マルセイユ大学(フランス)、フランクフルト大学(ドイツ)など世界各国の大学の教授を兼任された先生です。自身でもカロライナ頭蓋底センター研究所を創り研究のみならず教育にも力を注がれています。
米国で学ぶ機会を与えて頂いた福島孝徳先生(DUKE大学脳神経外科教授/米国)が、若い頃に口にされていた言葉です。国内でも高度な手術をされる先生方との出会いに恵まれました。脳外科では、名門としても知られる米国DUKE大学でも高度な手術や知識を学びました。帰国後も約18年の長期にわたり一緒に手術をさせて頂きました。福島孝徳先生より免許皆伝を受け、2020年からは自分の患者さんの治療を中心に手術に取り組んでいます。
DUKE大学にある福島先生の研究所には、手術を学ぶための全てがありました。また、福島先生が実践でメスをふるう手術、患者さんへの説明、術後の管理などの医療を実際に見れた事は教科書や手術ビデオからは全く次元の異なる勉強となりました。また、Carolina Neuroscience Insutitute & Skullbase Center(福島先生が所長を務める施設)にて福島先生の診察や対応、方針などをいつでも日常の会話を通じて教えて頂きました。
福島孝徳先生の理想する病院構想に協賛があり、福島孝徳記念クリニックが開業されました。さらに福島孝徳記念病院と規模を大きくするなかで、脳腫瘍・脳動脈瘤・三叉神経痛・顔面痙攣など毎日手術を行いアメリカの福島先生に治療経過を報告する中で、自分なりに福島先生の超一流の学びの結論を得ました。
初めて福島孝徳先生と話ができた時の写真です。30年位前で日本に招待講演に来られていた際に、学会発表した内容の事で福島孝徳先生より話かけられたのが最初です。それ以前の研修医の頃より福島孝徳先生の手術見学をしていたので手術室では、見学者の一人として居合わせていましたが、当時は雲の上の存在である福島孝徳先生に自分から話かける事などできませんでした。見学先では、他の見学者と一緒に昼食をとられた事もありますが、話す事などできずにその場に居合わせるだけでした。この時はとても嬉しかったです。
福島孝徳先生の頭蓋底部を中心に解剖を行い短期間研修するコース(フロリダ、米国)の参加を勧められ、世界各国から来られた脳神経外科医と一緒に学ぶ機会を頂きました。当時、日本ではこれだけの施設と環境で学べる事などありませんでしたので、実際に複雑な解剖を目の当たりにして、感動や興奮の日々でした。
(ⅰ)研究室で解剖を学ぶ
福島孝徳先生より、学ぶのならば自分の施設に留学をして、日本で一緒に仕事をするお誘いを頂いた時の感動は、未だに忘れていません。名門のDUKU大学脳外科(米国)に留学し福島孝徳先生のノースカロライナ頭蓋底研究センターでも研究する機会を与えて頂きました。手術を見学してから、研究室の戻り献体された頭部を用いて手術の復習や解剖の確認といった毎日です。
(ⅱ)福島先生執刀の手術を学ぶ
アメリカでは毎日、福島孝徳先生について回っては手術、手術、手術、手術の日々でした。DUKE大学病院だけではなく、DUKE大学の関連病院、County hospital などに車で移動しながら手術をされていました。26歳も年齢が離れているのに、自分の体力、気力、精神力等を疑うくらい当時の福島孝徳先生は活動的であった事と記憶しています。
(ⅲ)どこにいても勉強
ハワイに学会で行っても、学会の合間の日曜日にゴルフをしても、ホテルに帰る前にはカフェで打ち合わせです。患者さんからのメール問い合わせを確認したり手術方法のオリエンテーションをされる事は出かけ先でも日常の事でした。このモチベーションにいつも驚かされたのも思い出の一つです。いつも資料が見れるように、随伴するアメリカ在住の秘書が多くの資料を持ち歩いていました。
2007年に千葉県茂原市に福島孝徳記念脳神経外科クリニックが完成したため、福島孝徳先生と手術を行うため、帰国して開業の準備に取り掛かりました。経営母体となる法人塩田 塩田病院脳外科の勤務をしていた(故)北原功雄先生を病院長として開業しました。19床(ベット)までしか認可が下りなかったため、高性能の治療機器や画像機器、放射線治療機器(サイバーナイフ)を大きな建物内に設置しました。少ないベットを最大限利用して治療できるように、合併症なく早期退院できる手術を行う事を福島先生より指示され、脳外科部長として他の医師への手術指導も含め福島先生より学んだ事を日々実践していました。
▶ 2022年12月神奈川県相模原市で開院した"脳神経外科福島孝徳記念クリニック"とは、全く関係ありません。
地元での実績より、開業から約1年でベット100床までの増床認可がおり、「クリニック」から「病院」となり施設名称が「福島孝徳記念病院」となりました。患者さんは遠方からも多く来院されるようになり、手術も当然多くなり、国内の脳外科施設では大学病院を超える症例数となりました。脳外科部長、脳神経センター長、脳ドック健康管理センター長、副病院長と多くの役職を福島孝徳先生より任され、帰宅する事が3日に1日程度の激務をこなしました。激務のためか、私以外も開業当初から勤務をしていた脳外科医は、開業2年ですべて退職してしまいました。新たに就職を希望されてくる脳外科医の先生方に加わって頂き、手術をこなしていきました。
▶ 現在は、福島孝徳先生の拠点が変わる際(2014年)に塩田記念病院と施設の名称が代わっております
(福島先生との関わりは、全くない病院となっております)
2014年に福島孝徳先生が、森山記念病院・森山脳神経センター病院に拠点と移しました。私も福島孝徳先生と一緒に手術をするために常勤医として移動、新たに東京で多くの患者さんの治療をする事になります。頭蓋底外科部長・福島孝徳脳神経センター長として勤務を始める事となります。
福島孝記念病院や前勤務していた大学病院で脳腫瘍や脳動脈瘤やバイパス術など多く手術をしていますが、有名な専門家が集結したセンターとなっており、ここで福島孝徳先生からは免許皆伝を受けた「福島式鍵穴手術」を専門とした三叉陰茎痛・顔面痙攣・舌咽神経、下垂体腫瘍を主に任されました。
福島孝徳先生と約18年一緒に手術をしていく中で、手術の技術や手術に対する姿勢、手術に関する知識やコツなど多くを学びました。一方で、患者さんに関わっていく自分の理想とする医療と治療の道へ純粋に進めるまで修練と研鑽を積んだと思えるようになりました。福島孝徳先生との関わりや勉強を希望する若い先生方へのバトンタッチもそろそろ必要だろうと思えるようになりました。当院理事長(脳外科医)の森山貴 先生の勧めがあり、2020年に自分の患者さんの手術に専念することにしました。
現在は、自分の治療を希望される患者さん中心に手術をしています。脳外科医として今の自分を振り返った時、福島孝徳先生には感謝の言葉しかありません。この場にお礼の言葉を残します。長年どうもありがとうございました。
Resilienceを高く築いていく。
手術の成功は、患者さんが日常の戻り人生が全うできるように疾患をコントロールできた時だと思います。常に自分の方法や考えを分析するだけではなく、手術の技術や方法を考えていくために必要な事を常に取り込んでいく事を考える事が挑戦であると思う‥福島先生から学んだ事です。
医師として人間としての生き方としては、「憂き事の尚この上に積もれかし限りある身の力試さん」(熊沢蕃山)の歌のような気持ちです。